他の障害者団体から、機関紙(誌)が送られてきます。 ウチからも送っています。 まあ、交流というか情報交換的なことをしているわけです。
よく見かける記事に、障害者の「介助」なり「支援」なりをしている健体者(とウチでは言う。健常者とほぼ同意)が書いたもの。その、介助なり支援なりをする日々の中での、迷いだったり悩みだったりヨロコビだったりの記事。
私、コレにけっこう違和感なんですよね。
違和感のひとつめ。
なんでコレを機関紙に書いているのか。 誰に何を伝えたいんだろう、ということ。虹の会にとって機関紙は、私たちの活動を地域の皆さんに知ってもらい、共感してもらい、その先に「障害をもっていても地域であたりまえに暮らす」ことがあると思って発送しています。
「地域であたりまえに」と言うからには、自分たちだけでなんやかんややっているだけじゃ桃源郷になるだけ。自己満足に終わるだけ。本当に必要なのは、この自分たちの毎日や想いを伝えること。障害者運動が何かなんて知らない(知らなくていいと思う)地域のみなさんに、どれだけ伝えられるかだと思うのです。
という思いで機関紙を発送している私たち。
最初の話に戻りまして、「介助なり支援なりをする日々の中での、迷いだったり悩みだったりヨロコビだったり」をひたすら書き綴っているのは、どこに向かっているんだろう?と思うわけです。
目の前にいる障害者と、どう関わるかという話。
相手に障害があろうがなかろうが、「この人とどう関わろうか?」と考えるのは普通のことだと思います。でも、障害をもつ人相手についてだけことさらそれを言うのは、つまり、障害者は特別な存在であると。 自分とは違う存在であると。 それを「表現すること」になってしまう、ということに気づいているんだろうか?
って、気づいてないから書くんだろうなあ…。それを書いてる人だって、機関紙の表題とかを見れば「障害があっても地域で」ということを目指してるみたいだもの。
実際毎日あることと、それをどう表現するかって、ほんとは別物としてちょっとよくよく考えないとダメなんじゃないかと思う。いや、これ書いてる人自身、やっぱり無意識のうちに障害者を特別な存在だと思ってるのかな。だからこんなにいろいろ書くのかな。障害者の専門家になりたいのかな。
だってさ、たとえばモトミがこの暑い中、毎朝1時間以上歩いて来るわけだけど、帽子をかぶらないわけですよ。熱中症になりますよ、と。1回かぶっちゃえば、たぶんその後は何事もなかったかのように毎日かぶってくるんだろうけど、最初の1回にやたら抵抗するという…。
それはどうにかしなきゃと思うから、いろいろ考えたり試してみたりはするよ、確かに。だけどそれを、たとえば機関紙に書いて誰かに伝えたいとは、あんまり思わないんだよなあ。だって、伝えてどうする?
それより伝えたいのは、虹に来る前は家に引きこもっていたというモトミが、今は自分の足で歩いて通ってくること。プロレスなんか観に行けば、入場曲に合わせて拳を振り上げていること。にじ屋では、「これは自分の仕事!」とばかりに、誰に言われるわけでもなくゴミ箱の袋を取り替えていること。
地域の中で、楽しく毎日を生きていることをお伝えしたい。
そして、違和感のもうひとつ。
「向き合って」いるばかりで、「同じ方向を見て」いないのだ。最初に書いたような記事は、障害者と、「向き合って」いることばかり。たとえば同じ職場でやっていくなら、向き合ってばかりいられない。うちなら、「にじ屋の売り上げを上げる」という目標に向かって、同じ方向を向いて、みんなで進んでいく。
その中で、「向き合って」話し合うことやケンカすることもあるけど。でもそれって、障害があるからとかもはや関係なくて。
他の団体の記事を見ていて、向き合ってる記事が多くて、あれ、障害者って向き合う対象なワケ?って思うのですよ。そんなことばかり書いてたら、「障害者は特別な存在」という意識を強固にするだけだと思うのです。
↑お昼を買いに行く途中に遭遇した妖怪『もとみん』。
カズミ