虹の会機関紙「SSCにじ」9月号より転載
本当に必要な資格とは何か
~ヘルパー資格を巡って、運動のやり方を変えていきます~
「イントロダクション」
機関紙の先月号(「なんとなく、資格はあった方がいいんじゃないの」を変えたい!資格問題を進める運動へ方向転換 (nijirock.com))で、ヘルパー資格のことについて、虹の会評議委員会の見解を載せました。
簡単にいうと、今後、介助者のみなさんに資格を取ってもらう方向で考えたい、という内容です。
資格に反対する姿勢は変わりません。
簡単にいえば、介助者の資格は介助させる側の障害者が資格を与えるべきで、国家資格によるモノであってはならない、ということです。
だから、これまで国家資格については拒否してきました。
しかし、この方法、つまり「資格を取らない」を取っている限り、資格に反対する動きが作れない、ということに考え至りました。
「本当に必要な資格とは何か」
もちろん、資格がなくてもこれまで大きな問題なく30年以上やってきました。
だから、資格はなくても大丈夫なんです。
資格があっても盗難やいろいろがある中、そういう問題も起こしてない。
なぜなら、介助者にとってみれば、目の前の本人が資格を与える人なんであって、そこに問題を起こす余地がないからです。
そもそも、ヘルパー委託を受ける前から介助時間の拡充を求めて市と協議を重ね、その中で、言語障害だったりの場合、当人とのコミュニケーションが第一になるので、それまで来てもらっていたボランティアにそのまま介助に入ってもらう形になった、ということがあります。
つまり当時、国家が定めた資格があっても、障害者本人とのコミュニケーションが取れない人が多すぎた。
また、当時は男性のヘルパーなどはおらず、そのこともあって、ボランティアをしてくれていた男性の介助者をそのままヘルパーとして使う、ということを前提に我々の「介助派遣システム」は始まっている。
それらのことがあって、「当人が介助者を選ぶ」ことに我々はこだわってきた。
つまりは、国家資格よりも重い資格を我々は介助者に課しているともいえる。
じゃなければ、問題を起こさずにここまでやってこれない。
そう、「誰でもいい」などとは我々は思っていない。
問題は、障害当事者を越えて、「国家」が勝手に「この人はヘルパーとして認めます」と言っているところだ。
そして、そのヘルパーを個人の意向を考えずに派遣する。
そうなれば、当然問題が起こる。
それだけのことだ。
国家資格はかえって、問題を複雑にしているのである。
介助はプライベートなものである。
だからこそ、障害当事者が「この人なら介助をさせられる」という確信がなければならない。
ただそれだけのことなのだ。
「虹の会は特別」
けれども、それを訴えたところで、「虹の会は特別だ」で終わってしまう。
確かにこれまで、制度の柔軟対応をさせたりもしてきた。
一般にはなかなか派遣できないところに派遣するようにしたり、時間数を増やしたり、そもそも「推薦登録派遣」という方法自体が、我々だけに認められる形で始まっている。
それらのことは、その後確実にその他の人にも道を開いてはいるが、それをその当時大声で言えるわけでもなかったところもある。
いわゆる当時の役人との「密約」的なコトもあった。もう言っちゃうが、一年間は口外しない、みたいなことで始まったモノもある。
そうやって柔軟対応をさせてきて、それをその後制度として広げてきたのだが、それが足かせになってしまったというところもあったのかもしれない。
「虹の会は特別だ」というのは、その辺のこともあると思っている。
そんなこともあり、実際に国家資格を取るための動きをして、その中で、「やっぱ問題がある」というところに持っていかなければ、「資格に反対する」動きが大きくしていけない、と我々は考えました。
これまで、どんなに反対の声明を出したところで、「虹の会は特別だ」で終わってしまってきて、正直、「資格反対」の声はまったく大きくなっていない。
対行政の動きの中でも、「虹の会は特別だ」で終わってしまう。
あまりに行政との関係が当時近すぎたのかもしれません。
これでは、話が進まない。
国家資格のことは大問題だと思うのですが、大きくなっていないのは、我々の力不足もあろうけれど、そもそも我々が資格を取らないで、「無事に」介助者の派遣をしているだけではこの輪は大きくならないと判断しました。
というか、ならなかったことを今反省し、今後これを盛り上げていくためにやり方を変えようということに思い至ったわけです。
それが、国家資格を取る動きを取る、という方法。
実際にそうやることで、大きな視点から資格の問題点を指摘することができる。
どの事業所、ヘルパーも立っている同じ地平で、我々は資格反対の声を強めていきたい、ということです。
我々は、資格を取らせている事業所やヘルパーなどと敵対したいわけじゃない。
そうじゃない。
この問題は根深いことを共有したいだけなのだ。現場はそんなことだけで回ってるわけではない、ということを共有したい。
大事なことは何か、を共有したい。
少なくとも、そうすることで今の状態よりも前に進める、と虹の会評議委員会は考えました。
最終的には、もっと先には駆逐されるべきだと考えている国家資格をここで武器として、論議を盛り上げるための方法として使いたい。
「当事者が決める、は変えない」
とはいえ、我々は今までの「障害者本人が介助者に資格を与える」という部分を変えるつもりはありません。
国家の資格があろうがなかろうが、介助者に必要な資格は、「当事者である障害者がその介助者を使うかどうかを決める」という部分です。
そこを変えるつもりはありません。
つまり、それはこれまでやってきた方法であるわけですが。
そういう現場のことは別にして、実際に国家資格を取ろうとする中で、どれだけ国家資格に割く時間が、金が、無駄に使われるのか、ということも我々の運動の理念として蓄積されるでしょう。
そしてそれは「資格ビジネス」というものに絡め取られてもいるということを自覚したい。
彼らは、一つ一つ資格を作って、そのたびに講座を受けさせ、金を集める。
それはいわゆる「利権」であり、障害者の福祉を食い物にしているようにも見える。
本当に必要な、「当事者である障害者が認める介助者」という部分をすっ飛ばして、国が金を払わせて介助者に「資格」を与える。
後に詳しく書きますが、その結果、本人の意に沿わない介助者が派遣されることもある。
そういう「資格」の闇にもこれから、実際に底に足を踏み込んで迫っていきたい。
ぶっちゃけた話をすると、ヘルパー資格の講座も「ビジネス」だから、お金を払わせてるのに「資格を出さない」というわけにはいかないんですよね。
ここも現実的にはかなり重要で、書けない話もあるんですが、どっちにしても介助者側の人手不足が叫ばれる中、この部分は恐らくは改善されないだろうと思います。
資格をビジネスにすることは、結果としては全体の力量を下げることにもなってしまっているのではないか、とも思っています。
また、資格が増え、現場ではそのために多くの書類が必要になっている。
それは現場を疲弊させている。
「「資格はないよりあった方がいい論」は受け入れられない」
なぜ、わざわざ方法を変えてまで、我々が資格の問題にこだわるのか。
そもそも、資格の問題は、「資格はないよりあった方がいいじゃん」「まあ、あってもいいじゃん」という論議に、「そもそも論が流されている」傾向がある、と思っています。
つまり、「そんなに問題じゃないじゃん」「とりあえず介助者に取らせればいいじゃん」「だって、行政も取れっていってるし」というような、資格そのものを肯定するというより、現場的には、消極的な感じなんですよね。
「とりあえずまあ、取っちゃってくださいよ、決まりだから」的な。
いや、まずですね、この「ないよりあった方がいい」「あってもいいんじゃん?」って、恐ろしいと思うんです。
そもそも論が吹っ飛んじゃうから。
「国家が定める資格が必要か?」ということを吹っ飛ばしてしまう。
本人が決めるべきなんじゃないか?という論を吹っ飛ばす。
ヘルパー、まあここでは介助者、と書きますが、誰に介助をさせたいか、というのは障害者当事者本人が決めるべきだと我々は思っています。
これについてはずっと変わっていません。
それこそが資格なのだ、と思っています。
ま、これはそうですよね。
誰しもがそういう風に思うと思うんです。
どこの誰か、ちょっと自分と合わない人に介助をさせるほどストレスが溜まることってないわけで。
「面倒見てもらうんだから贅沢言うな」とかいうバカ意見はここではほっときます。
ま、つまりは国家が定める資格なんてのは必要ないんですよね。
そうじゃない。
介助させる人が介助者を決めればいい。
「なぜ、当事者である障害者を飛び越えるのか?」
でも、じゃあなんで「国家が定める資格」が必要なのかというと、つまりは「合理的に介助をやらせたい」からですね。
施設だったら、一人が20人の面倒をみる、みたいなことがありまして、まあ、現実的に無理なんですが、まあそうなっている。
こうなると、その中の一人が、「この職員(介助者)はイヤだ」というのは成り立たないんですよ。
だから、合理的に介助をさせるために、資格を定める必要がある、と。
言葉悪く言うと、「この人は資格を持ってるんだから文句言うな」ということになる。
異性介助の問題というのがありまして、施設なんかではけっこう行われているようで。
つまり、同世代の男の職員に女性の障害者が風呂の介助とかを受ける、みたいなことですね。
あり得てはならないことだと思いますが、そういうことは普通にある。
なぜなら、「この人は資格を持ってるんですから」である。
そもそも、資格があった方がいい、というのは、例えばその前の時代に暴行とか当事者の通帳から勝手に金を下ろして自分のモノにしちゃったり、つまり横領か。
そういうことがあって、世の中的には「やっぱ資格はあった方がいいじゃん」となってると思うけど、「資格がなきゃ介助ができない」となって、この問題が起きていないかというと、起きています。
つまりですね、世の中の人は簡単に「あってもいいじゃん」と思ってるかもしれないが、あることによって、障害者当人の問題はより深刻になっているんですよね。
「老人の介護との差別化の必要性」
それともう一つ、老人の介護と障害者の介助というのは分けて考えるべきだとも我々は思っています。
というのは、ある程度人生経験を積んで、その後の余生、というところにある老人の介護と、「今、人生の中で一番脂がのってる時期」にも介助が必要である障害者の問題は、やっぱり違う。
介助をさせる側の人生の背景が違うのだから、それは違わなければならない。
のに、それを一緒くたにして論議しているのがそもそも話にならない。
つまりは、それは、老人、障害者といった当事者のコトを何も考えてない、ということでもある。
当事者主体でモノを考えていたら、この二つは、同じ「介助」であっても意味が違ってくる。
そうなってないのだから、当事者主体とは言えない。
少なくとも、20代、セックスをしたことがない障害者の介助を、セックスをしたことがない同世代の異性の介助者がするなどと言う状況は、「資格があるんだから」の一言ですまされる問題ではなかろう。
バカなのか?って感じだ。
ま、老人だから異性介助でもいい、と言ってるわけではないが、少なくとも同じように考えるのは違う。
というわけで、「ないよりあったほうがいいんじゃん?」くらいの軽い感じでこの問題は考えてはならないのである。
「エピローグ」
これだけ大きな問題であるにもかかわらず、資格の問題はなかなか大きく取り上げられません。
どちらかというと、例えば先にもあげた男性が女性の介助をする、というような、実際に今行われていることを鑑みれば、大きな人権問題ではないか。
そのベースに「資格があるんだからいいでしょ」があることは否めない。
もちろん、資格があったってそんなことをしたらダメなわけだけど、「イイワケ」の一つとして資格があることは現実でしょう。
そもそも大量収容の「合理的介助」、障害者の生活をヘルパーや制度の都合で輪切りにし、何件も一日に回れるように、ということをベースに考えられたモノを受け入れるわけにはいかない。
それを大きく訴えていくためにも、我々は方法を変えます。
国家資格が必要ない、という気持ちや根本は変わりません。
今後、この方向で現介助者のみなさんとも話し合いを進め、「資格反対」の声を上げる方法を変えていきたいと考えています。
我々は、単純に「当事者である障害者がその資格を決めるべきだ」と言っているだけです。
もう一度言いますが、それは国家の資格、「お金を払って講座を聞けば資格がもらえる」というモノよりも、ずっとハードルは高い。
そして何より、国家の資格は、国が決めてるだけで、当事者はそこに「噛めない」。
それだけでも問題。
この問題をぜひ今後論議していきたいと思っています。
みなさんの意見もあったらお寄せ下さい。
(虹の会評議委員会)