「カイがお客さんの眼鏡をふっ飛ばしてしまった」ことから考える。(その3・おわり)
「カイがお客さんの眼鏡をふっ飛ばしてしまった」ことから考える。(その2) (nijirock.com)
のつづき…
社会的動物として生きているからこそ。
佐藤さんは、社会的動物という話をしていた。人間は他の動物と違って「社会的動物」で、社会とつながっていなければ成り立たない。社会の中では各々の役割ができて、相互関係によって形成されている。
仕事から解放され専門学校から解放されたとしても、社会的動物としての「不安」はのしかかる。
この「不安」を広く考えてみると、社会とつながれる仕事や学校に気持ちよく行ければ、それに越したことはない。それには仕事場が、学校が、それを取り巻く社会が変わっていかなきゃならない。
カイがそうなってしまう、コバが鬱々してしまう、そうなってしまうということを仕事という自分たちが作ってる社会が締め出さなきゃいいのではないか。
問題を起こしたらつまみ出す。お茶を飲んでろ、それで落ち着いたから解決、というのはおかしくないだろうか。問題を起こした理由があるのではないか。
自分たちが作っているにじ屋という「社会」が間違ってはいないだろうか。彼らを追い出していないだろうか。
そう思う。
自分たちは、カイたちが「つまらない」「俺はいらない」と思わないような社会を作らなければと思う。同時に、自分たち自身もそういう中にいたいし、自分が主張できて自分が納得する形で存在できないと。
「飛び出てしまうカイ」を、飛び出し方を問題にするのではなく、その飛び出す理由を減らしていく。要因がゼロにはならなくても、飛び出さなくて済む集団を作りたい。
問題をカイたちに帰して終わりにしない。
カイたちに、甘えすぎていないだろか。
ほったらかしにされてる状況は、「要らない」ということにもなる。みんなの中に入れない入れさせてもらえない、居場所がないということで、本人にとっては理不尽だ。
カイはそういう状況が続いたら、こだわりを発揮して誰かの気を引こうとしたり憂さ晴らしをしていたりするのかもしれないし、これがコバとかコウヘイだったら、たぶん何もしないボーッとしているのかもしれない。
この理不尽な状況はイヤだ、と主張してこない。主張しないのは性格なのか鈍くなっているのか、方法がわからなくてため込んでいるのかわからないけれど、主張しないことにこちらが甘えてほったらかしたままにしていたら、それは施設から出て虹の会に来た時のオグラのように、自分の気持ちが上がってこない、自分の気持ちを捨ててそこにいるしかなかった人にしてしまう。
ハヤテは今のところ自由気ままにしているけれど、「それはそれで楽しいのだろうか」と思うことがある。自分の好きなことをしていて楽しいけれど、それは今までの楽しいことの中でしか生きていないことにもなる。
「楽しんでいるんだからそうしておけばいい」と自分たちが何も考えなければ、何もしなければ変わることもなく、ハヤテは過去の中にいるままで、ここにはいない。それは、自分たちの中には「ハヤテは要らない」ということにする。
カイは自分たち以上にわからないことが多くて、自分たち以上に助けは必要だと思う。カイの力が発揮されるように作業の準備や流れをわかりやすく動きやすいように考えていくと、それによって一人一人ができることが見えてくる。
そしてすごくやりやすいし、その仕事、その時間は楽しい。カイが止まらないでやり続けられるようにして、その上でカイが乗らなかったら、その時に「調子が悪いのかな」と思えるんだと思う。
そもそも、値段付けもカイを放置したまま進んでも、ウチでは意味がない。カイたちに、甘えすぎていないだろか。
「これで上手くいくはずなのに上手くいかなかった」となって初めて考えるべき原因が発生する。「上手くいくはず」という「予測、準備、観察」がなければ、そもそも上手くいくわけがない。
これはカイだからということではなく、誰だって自分の力が発揮できずにいるのはつらいこと。ダメ上司の言うことを聞かなきゃいけない部下と同じ。できるできないじゃなくて、そういう気持ちで臨めているか、ということをいつも自分に問いたいと思う。
これで考察が終了したわけではなく、まだこの件については私たちの間でも論議、そしてそれを実践していく模索は続いています。
(了)